全国各地に見られる「寺町」ですが、尼崎の寺町はどのようにして誕生したのでしょうか? ここでは、その歴史的背景と11か寺についてご紹介します。
寺町とは
寺町とは、多くの寺院が集まった地域によく見られる地名で、その多くは近世城下町の建設とともに、政治的意図をもって城下町の外縁に造られました。
16世紀の後半、豊臣秀吉によって全国統一がなされ、領主たちは自身の拠点を強化する施策の一つとして城下町を建設しました。城下町には、武士や商工業者を集住させるとともに、寺院にも支配の手が及び、従来、町場や領内の各所に散在していた寺院が一か所に集められたのです。
寺院が集中して配置された目的には大きく二つあると言われています。一つは軍事目的で、大きな建物と広い境内がいざという時の出城の役割を担うため、大人数の宿泊が可能な施設として配置されたというものです。
もう一つは宗教政策を目的にしたもので、寺院を集中させて管理することにより、寺院勢力を統括しやすくしたと考えられています。
(この背景には、戦国時代の一向一揆に代表されるような真宗寺院との対立経験があったからという説もあります。)
尼崎の寺町の歴史
1617 年(元和3 年)、現在の大津(滋賀県)から譜代大名 戸田氏鉄が5万石の尼崎藩主として入部してきました。
入部から 3 か月後の1617年10月、尼崎に新城を築くよう幕府の命令が伝えられます。その際に、京都・大坂の守りを固める役割が、三河衆の一人であり、築城の名人といわれた戸田氏に託されたのです。
新城の築城と同時に、城下町の整備も進められました。城を中心として東西に町場が整備され、東は現在の大物から、西は貴布禰神社のあたりまでが城下町となりました。
その際、城郭建設の予定地にもともとあった寺院をはじめ、中世以来町場にあった寺院や、戸田氏入部に従って大津から移ってきた寺院が一か所に集められ、尼崎に寺町が生まれました。
(参考:「寺町イラストマップ」(尼崎市発行、平成 31 年 3 月改訂)
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